川崎のぼる×ビッグ錠×南波健二による鼎談「貸本漫画から少年誌へ〜1960年前後のマンガ界を語る」参加レポート

投稿者 こうの 投稿日時 2015/08/04

8月1日(土曜)に三鷹ネットワーク大学で開催された「マンガ鼎談:貸本漫画から少年誌へ~1960年前後のマンガ界を語る」に参加してきました。
川崎のぼる先生のほか、古くからの友人であるビッグ錠先生と南波健二先生による鼎談で、このトークイベントは三鷹市美術ギャラリーで開催中の『川崎のぼる ~汗と涙と笑いと~ 展』の関連イベントとして企画されました。

川崎のぼる先生とビッグ錠先生はデビュー当時からの付き合いで、川崎先生がデビュー直後に結核で入院(6~7カ月間ほど)して大阪に戻ったときには西宮のアパートで共同生活していた関係です。この日もいつも通り、お互いに「ボンやん」「竜やん」と呼び合っていました。
(ふたりが上京した際も、駒込で共同生活を送っていたそうです)

また、川崎先生と南波健二先生は川崎先生が上京して、さいとう・たかお先生のアシスタント時代に国分寺の「近藤アパート」ってアパートで(川崎先生が大阪に帰るまでの)4ヶ月間ほど共同生活を送っていたそうです。ちなみに「健やん」と呼ばれてました。
トキワ荘での藤子不二雄先生もそうだけど、当時の若手漫画家はけっこう共同生活率が高かったんでしょうね。

貸本漫画出身である、3人のデビュー作。
川崎先生は中学卒業後の1957年に『乱闘・炎の剣』でデビュー。

519 川崎のぼる (漫画家)
1941年、大阪生まれ。町工場で働きながら漫画を描きつづけ、1957年、単行本「乱闘・炎の剣」でデビュー。時代劇作品でのデビューだったが、旺盛な創作意欲、優れた才能と豊かな感性で、スポーツ物、人情物、爆笑ギャク、西部劇等、幅広いジャンルに渡って力作を発表。そして1967年、第8回講談社児童まんが賞受賞の超人気大作「巨人の星」で一流漫画家の地位を不動のものとした。同作はのちにアニメ化される。1969年に「アニマル1」「いなかっぺ大将」で第14回小学館漫画賞を受賞。さらに1978年、少年マガジン連載……
1941年、大阪生まれ。町工場で働きながら漫画を描きつづけ、1957年、単行本「乱闘・炎の剣」でデビュー。時代劇作品でのデビューだったが、旺盛な創作意欲、優れた才能と豊かな感性で、スポーツ物、人情物、……

ビッグ錠先生(当時は「佃竜二」名義)は高校1年のときに『バクダン君』でデビュー。

1396 ビッグ錠 (漫画家)
高校1年の時、貸本向けの本「バクダン君」を発表し、デビュー。1958年、同じ漫画家の川崎のぼると上京するが、1年で帰阪。1962年、大阪電通デザイン課でアルバイトの後、1964年に独立し、リュウプロを設立。1968年には再び上京し、『プレイボーイ』『明星』『ヤングコミック』などで短編を描く。1970年『週刊少年キング』に「さよならサクランボ」を掲載し、少年誌デビュー。1971年『週刊少年マガジン』に「釘師サブやん」を連載、大ヒットとなる。以後、「くっとろい奴」「包丁人味平」「スーパーくいしん坊」……
高校1年の時、貸本向けの本「バクダン君」を発表し、デビュー。1958年、同じ漫画家の川崎のぼると上京するが、1年で帰阪。1962年、大阪電通デザイン課でアルバイトの後、1964年に独立し、リュウプロを……

南波先生は高校2年のときに『荒鷲の決戦』で貸本漫画デビュー。

6350 南波健二 (漫画家)
手塚治虫に憧れ中学生の頃から漫画家を目指す。高校2年で「荒鷲の決戦」で貸本漫画デビュー。その後、さいとう・たかをのアシスタントをしながら、貸本漫画向け単行本にアクション漫画、時代劇漫画を描いた。自称「最後の貸本漫画家」と名乗っており、貸本劇画のピークも衰退も最前線で立ち会っており、衰退後は『週刊少年キング』や『週刊少年マガジン』などの週刊誌に執筆の場を移した。
手塚治虫に憧れ中学生の頃から漫画家を目指す。高校2年で「荒鷲の決戦」で貸本漫画デビュー。その後、さいとう・たかをのアシスタントをしながら、貸本漫画向け単行本にアクション漫画、時代劇漫画を描いた。自称「……

この日のテーマが「1960年前後のマンガ界を語る」とあるように、川崎先生の代表作でもある「巨人の星」を連載するよりも昔の話が中心でしたが、手塚治虫先生やさいとう先生など、大御所の先生たちの名前が随所に出てきてとても楽しかったです。

共同生活の話もおもしろかったんだけど、(まだ新幹線も東名高速道路もなかった当時)川崎先生とビッグ錠先生がいっしょに東京から大阪まで自転車で帰ろうとした際に、途中の箱根ではぐれてその先は別々で帰ったとか、ほんとマンガみたいな話をされてました。
このあたりの話はビッグ錠先生の「川崎のぼる伝」という作品で描かれてます。調べてみたら『小学六年生』1976年7月号の付録冊子に掲載されたそうで、入手困難っぽいですね。

上の写真で拳銃を持ってるのは川崎先生で、ほんとに当時はモデルガンを持ち歩いてたそうです。

35610 川崎のぼる伝 [ビッグ錠] 読み切り
小学六年生 [1976年〜]
大阪で川崎のぼると共同生活を送っていたビッグ錠が、当時の様子を振り返りながら描いた伝記的作品。
大阪で川崎のぼると共同生活を送っていたビッグ錠が、当時の様子を振り返りながら描いた伝記的作品。

2時間があっという間に終わるくらい、楽しいトークイベントでした。

質問のコーナーがまたすごくて、「『巨人の星』では長嶋茂雄と王貞治の身長差がじっさいの逆で王貞治のほうが大きく描かれていたけど、『新巨人の星』ではそれが直っていたのは指摘があったのか、それとも調べたのか」というマニアックがすぎる内容で、ちょっと手元に現物がなくてまだ確認してないんだけど、こういう「読みたくなる質問」っていいですよね。

じっさいは長嶋さんが178cm、王さんが177cmとほぼ差はないんだけど、「巨人の星」では王さんのほうが大きく描かれてたってことなんでしょうね。
川崎先生の回答は「感覚で描いてるからたまたま逆になっただけです」っておっしゃってました。

もうひとりの方の質問は「漫画家と編集者の関係性はむかしといまとで変わったと思うか」という内容で、川崎先生によれば、先生と中野祐介さん(『週刊少年ジャンプ』第2代編集長)の関係性がのちの編集者に影響を与えたかもしれないとおっしゃってました。
ふたりの関係をそのままなぞったのが、中野さんの部下だった西村繁男さん(『週刊少年ジャンプ』第3代編集長)と本宮ひろ志さんだともおっしゃってましたね。

(貸本漫画は一般的には1969年が終焉といわれてるそうですが)南波先生によれば1965年がピークで、1967年くらいで衰退したとおっしゃってましたが、たぶん週刊誌の時代にシフトしていく中で、編集者が「発掘し、育てる」という役割をより求められるようになっていったんでしょうね。

「漫画家のデビューへの入口として貸本時代は恵まれていた」という話はお三方ともおっしゃってました。新人に100ページをこえる1冊まるごと描かせてくれるというのはいまでは信じられないと。
そういう観点でいえば、

  1. 貸本デビュー
  2. 出版社持ち込み
  3. 新人賞
  4. 同人誌からスカウト
  5. Pixivなどネットからスカウト

というような時代の変遷があるのかな。
たぶん当時のほうが恵まれていることもあれば、読者と直接つながったり漫画家が自ら出版できるような点ではいまの時代のほうが恵まれていることもあると思いますが、いまできることのなかでがんばれるといいですね。

『川崎のぼる ~汗と涙と笑いと~ 展』も見てきた

帰りに駅前の三鷹市美術ギャラリーに寄って、展示も見てきました。

館内の撮影はできなかったのですが、展示されている原画の数もかなりたくさんありましたし、これが600円というのはかなりお得な気がします。
クリアフォルダーやポストカードなどのグッズも売ってました。

とくに図録(2000円)の完成度が素晴らしかったです。


この展示会は10月12日まで開催してますので、ぜひ出かけてみてくださいね。

カテゴリ レポート タグ 川崎のぼる, ビッグ錠, 南波健二, 貸本漫画

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